西郷どん(せごどん)の有馬新七の人生とは何故悲しすぎる?

大河ドラマ西郷どん(せごどん)で西郷の郷中仲間の有馬新七は文武両道で知られた人物です。

西郷どん(せごどん)の有馬新七役は増田修一朗さんのプロフィールも調べましたよ。

西郷どん(せごどん)の有馬新七は桜田門外の変、寺田屋事件など血なまぐさい争いや西郷どんと仲間達の動も気になります。

今回は寺田屋事件で壮絶な運命を迎える有馬新七を紹介したいと思います。

西郷どん(せごどん)有馬新七役:増田修一朗さんとは

NHK大河ドラマ、西郷どん(せごどん)で西郷吉之助(隆盛)の郷中仲間である有馬新七(ありましんしち)役を演じる俳優の増田修一朗(ますだしゅういちろう)さんは、1980年12月4日生まれで、テレビ、映画、舞台で活躍されています。

下のツイッター画像の一番左が有馬新七役の増田修一朗さんです。

過去の大河ドラマでは「軍師官兵衛」に出演していました。

朝ドラの出演はありません、最近のドラマでは「特命刑事 カクホの女」で出演中です。

「軍師官兵衛」の時は戦国大名の大友義統役で出演されてましたが、今回も戦いの場でどんな演技をするか注目です。

有馬新七の子役は伊澤征樹さんが演じてました、写真を見ると仲良さそうに映っていて、皆と楽しく「西郷どん(せごどん)」の撮影をしていたのでしょう。

「西郷どん(せごどん)」の幼少期の放送が短く、子役の演技が見られないのを惜しむ視聴者の反響があり、喜怒哀楽をしっかり表現した演技が良かったですね。

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有馬新七の生い立ち

有馬新七は、1825年12月13日に薩摩国日置郡伊集院郷古城村で生まれますが、父が有馬家に養子になった都合で、西郷どんと同じ下加冶屋町に移住しました。

西郷どんの一つ年上で、一緒に郷中教育を受け育ちました。

のちに同じ志を持つことを考えると、下加冶屋町の郷中教育で有馬新七は、西郷吉之助(隆盛)、大久保正助(利通)、村田新八ら、幕末から新政府時代を駆け抜けた人物とよく遊んでいたことでしょう。

西郷どん(せごどん)の郷中仲間たちの隠れたエピソードはこちらぜよ!

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有馬新七の文武両道時代

有馬新七は飛びぬけて優れた文武両道の人といわれてました。

新七は幼少期から、剣の達人であった叔父の坂木六郎に、神影流を教えられました。

そして、14歳の頃、中国についての書「靖献遺言」(せいけんいげん)を研究し、1843年に儒学者山口菅山の門下になり、1857年に薩摩藩邸学問所教授に就任、1861年に鹿児島の藩邸の訓導師に昇進します。

また、1860年に新七は町田久成の要請を受け、伊集院郷石谷村を統治をし、村の刑法を定め、罪を犯した者に石坂という道の建設をさせる、郷士に五人組制を実施するなど指導を行いました。

新七が研究していた「靖献遺言」は、尊王思想について書かれた本でもあり、のちの新七の行動にも影響を与えていたと思われます。

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有馬新七、伝説の「寺田屋事件」

有馬新七は尊王思想の考えを、日に日に過激なものへと変えていきます。

新七と同じく尊皇攘夷派の志士達と交流を深め、のちの桜田門外の変の事件に加わろうとしましたが、薩摩藩の同意を得られなかったので、その時は断念しました。

その後も新七は、西郷吉之助(=鈴木亮平)、大久保正助(=瑛太)、有村俊斎(=高橋光臣)、大山格之助(=北村有起哉)らの郷中仲間も入っていた精忠組で、尊皇攘夷活動をエスカレートさせ、過激派で活動してました。

この新七を含めた尊皇派志士らは、討幕を起こすために京都所司代酒井忠義の襲撃を計画・実行の為に伏見の船宿寺田屋に集結していました。

この頃、薩摩藩の島津久光(=青木崇高)は討幕の意志がなく、過激な薩摩藩の尊皇派志士を粛清する為に上洛して、先に京都にいた西郷どんと村田新八を捕まえ粛清します。

久光は朝廷より過激志士始末の命令を受け、寺田屋にあつまっていた過激な志士達を抑え込もうと、側近や大山格之助ら腕の立つ薩摩藩士を次々と説得に向かわせます。

過激側に有馬新七、説得側に大山綱良(格之助)と、西郷どんで描かれている仲間が敵対してしまいます。

交渉が決裂し、説得側の道島五郎兵衛が過激派側志士に斬りかかった事から、薩摩藩同士の斬り合いが始まります。

この同じ藩同士の激しい斬り合いの中、最初に刀を振った道島五郎兵衛と刀を交えていた有馬新七は、激しい刀のぶつかり合いで刀が折れていたの、道島に飛びかかりました。

道島を壁に押さえつけた新七は、近くにいた橋口吉之丞に、

何と、自分もろとも道島を刀で刺せ!と

「オイごと刺せ、オイごと刺せ」と命じます!

橋口はそれに従い、新七を背中から刀で貫き道島共々殺害します。

有馬新七、享年38でした。

寺田屋事件、説得側で死亡した者は、新七ごと刺された道島五郎兵衛ただ一人でした。

刀が折れてしまっても、命を捨て敵に飛びかかり、自分ごと刺すよう命じた有馬新七。

悲しすぎるほど勇敢な本当の「武士」ですが、

同じ薩摩藩同士の切り合いで命を落とす事を自ら選んだ彼が

「描いていた未来」とはどんなものだったのしょうか?

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西郷どんの有馬新七の人物像まとめ

自らが目指した新政府時代を見る事無くこの世を去る有馬新七、このことを知っていると増田修一朗さんの演技をもっとしっかり見ておきたいですね。

有馬新七もそうですが、郷中出身の藩士は養子が多いですよね。

叔父の坂木六郎が剣の達人で西郷どんも六郎に教えを受けてたらしく、新七と稽古してたのかなと想像します。

勉強熱心で藩に認められるぐらい優秀な新七でしたが、思い入れ過ぎたのか尊王論を強く師事し、過激な思想になり若くして命を落とすのは寂しいですね。

寺田屋事件のやり取りは凄まじかったですね、もし道島五郎兵衛が先制攻撃をせずに粘り強く新七らを説得していたら、ここまで凄惨な結果にならなかったのではないでしょうか?

異国の船の幕府の対応に不満を示した有馬新七ら薩摩藩士が、日本の未来の為に学んだ尊王論で、異国に対抗しようとした結果、寺田屋事件は起きました。

恐らく新七は真面目な人間で、思った事をしなければならない使命感が強い為、井伊直弼暗殺に加わろうとしたりしたのだと思います。

この新七らが強行に出なければならなかったのは、上役に訴えても退けられる時代背景が、彼らを戦闘へと駆り立ててしまったのだと考えます。

もし、新七らが説得に応じ、西郷どんと共に行動していたら、どんな人物になっていたのかと考えると面白い気がします。

まだまだあります、気になる西郷どん(せごどん)情報更新中!




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