西郷どん(せごどん)の有村俊斎(海江田信義)は最後そうなるの? | ティーバー(TVer)の無料ドラママニア

西郷どん(せごどん)の有村俊斎(海江田信義)は最後そうなるの?

2018年の大河ドラマ西郷どん(せごどん)の若き日の仲間たちが将来大きな活躍をしますが、有村俊斎(=高橋光臣)は果たして出世できたのでしょうか?

有村俊斎はお調子者だったと言われていますが、大人になって、西郷どん、大久保利通らとどういう関わりをしていたのか気になりますね。

今回はドラマでお調子者の有村俊斎を史実を元にして、どんな人物だったか説明したいと思います。

西郷どん(せごどん)有村俊斎役:高橋光臣さんのプロフ

まずは有村俊斎役を演じる高橋光臣さんを紹介したいと思います。

高橋光臣さん、生年月日は1982年3月10日で、大阪府出身、身長は176㎝。

特技は剣道・殺陣、乗馬、ラグビーです。

俳優で、テレビ、映画、舞台、ラジオ、特撮のビデオに出演しています。

朝ドラは「梅ちゃん先生」

大河ドラマ「龍馬伝」に出演。

他「ブラックリベンジ」や「下町ロケット」、

特撮も含め多くのドラマに出演しています。

映画「真田十勇士」、舞台「彩の国シェイクスピア・シリーズ」など他のジャンルでも活躍されてます。

奥さんの宮下ともみさんも女優で、テレビや映画などで活躍中です。

※2018年2月19日に高橋光臣さん、宮下ともみさんの間に第一子の男の子が生まれました!

おめでとうございます。

特技の剣道は二段で、その他にもバスケットボールや野球の経験があり、2007年「スポーツマンNo.1決定戦」の番組では総合2位になるほど、運動神経が高いです。

今後の「西郷どん(せごどん)」で凄い動きをする有村俊斎に注目したいです。

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有村俊斉の生い立ちから

「西郷どん(せごどん)」では子役の池田優斗さんが演じてました有村俊斉の幼少期は、島津斉興(=鹿賀丈史)に出仕して茶坊主となり、名前を太郎熊から俊斉と変えました。

嘉永2年に島津斉彬(=渡辺謙)と斉興(=鹿賀)の争いから、有村家が窮地に立たされますが、斉彬が新しい藩主になると、藩に復帰することを許されます。

この時に俊斉(=高橋光臣)は、のち著名になる多くの藩士が集まり結成した「精忠組」で西郷どん(=鈴木亮平)と大久保(=瑛太)に出会うことになります。

その後、嘉永5年に樺山とともに江戸藩邸に勤めることになり、藤田東湖と戸田忠太夫を先生として尊王論を学びます。

井伊直弼の安政の大獄が始まると、弾圧から逃れるため、俊斉は西郷どんとともに薩摩に帰国します。

この弾圧から精忠組の大久保らが、脱藩して公家や大名の暗殺計画を立てますが、薩摩藩に知られ断念して藩政に従うことになります。

そんな中、万延元年に俊斉の弟・雄助と次左衛門の二人が水戸浪士とともに井伊直弼の襲撃を計画して殺害、いわゆる「桜田門外の変」を起こします

次左衛門はその場で自害、雄助は薩摩藩に戻り、精忠組と家族に見守られ自害します。

文久元年に、俊斉は日下部伊三治の次女まつを妻として迎え、それと同時に婿養子になり、海江田武次信義と改名することになります。

本来、日下部家の後を継ぐ次左衛門の替わりに、義理で俊斉が日下部家を継ぐ形になりました。

ドラマでお調子者だった俊斉が、実際、弟や日下部家の為に義理を見せる人物なので、「西郷どん(せごどん)」の今後の展開が楽しみです。

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西郷どんや新八を島流しさせちゃった?

文久2年、有村俊斉は島津久光(=青木崇高)に従い護衛の1人として京都に上ったが、先に行った西郷どんと村田新八(=堀井新太)の動きを伝えてしまい、久光を激怒させます。

俊斉は西郷どんと新八の島流しの原因をつくたと言っても過言ではなく、さらに失敗は続きます。

寺田屋事件では奈良原繁とともに、有馬新七ら藩士の説得するが失敗して、多数の死傷者がでます。

江戸から帰る久光らは生麦事件に遭遇します。

同行していた俊斉はそこで負傷したイギリス人にとどめをさしてしまい、この事件が様々な摩擦を生みます。

軽率な行動が目立ち、やはりお調子者かと思ってしまいます、何を思って西郷どんの行動を久光に伝えたか気になります。

有村俊斉のその後

有村俊斉は江戸城明け渡しの際、新政府軍代表として西郷どんを補佐し、勝海舟らと交渉、など活躍します。

大村益次郎との不和から長州出身者の反発を受け、華族制度が施行されても位の低い身分のままでした。

明治3年に大久保利通(=瑛太)に助けてもらい、俊斉は官職に復帰して、廃藩置県で県となった奈良県知事に任命されました。

しかし、行政の承認を得ずに勝手に県庁を移転したために、次の年の明治4年に解任させられます。

薩摩に帰郷して静かに暮らすつもりでしたが、島津久光と新政府の調停役になってしまいます。

そのことが俊斉の評価を上げ、年が代わり明治5年、左院四等議官として復帰します。

島津久光と新政府の調停を続け、左院の廃止により鹿児島に帰りますがすぐに病に侵されてしまいます。

西南戦争に参加した記録はありません。

西南戦争での西郷どんの自害、大久保利通の暗殺と、俊斉は精忠組の昔からの仲間たちの死に悲嘆に暮れたでしょう。

その後、明治14年に元老院議官となり、明治23年、貴族院議員、翌年に貴族院議員になります。

そして勲一等瑞宝章と勲一等旭日大綬章を2つ受け、明治39年に75歳でこの世を去り、この時の位は贈正二位でした。

晩年まで軽率な行動から官職を追われますが、病に伏せてからの怒涛の出世には驚きを禁じ得ません、波瀾万丈の言葉がピッタリな人だと思います。

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西郷どん(せごどん)まとめ

今の「西郷どん(せごどん)」では到底考えられない人生を送る有村俊斉、今後の高橋光臣さんの演技が楽しみです。

俊斉は島津家の争いに巻き込まれ、極貧状態、弟たちの事件など、人生の前半から苦しい展開には同情します。

しかし、うっかりした行動で西郷どんらを島送りにするのは残念です、また大村益次郎との対立は、益次郎が殺されその罪人をかばう行動には、根深く暗い感じの性格に思えます。

直情的な性格だったらしいですが、仕事が手狭だったので許可もなく奈良県庁の移転して、失脚したところがその通りだと思います。

上記の奈良県知事へと導いた大久保利通には恩を感じ、暗殺を悲しんだ書面が残っています。

大久保は俊斉に忍耐不足を注意する忠告を与えいて、知事の時は失敗しましたが、その後の成功は俊斉が大久保の忠告を守ったものだと思います。

時代のせいか西郷どんも大久保も思い立ったら命がけで訴えようとしますので、直情的な俊斉と性格があっていたのかもしれませんね。

まだまだあります、気になる西郷どん情報更新中!




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