西郷どん(せごどん)と島津久光(青木崇高)とは本当に犬猿の仲?

大河ドラマで西郷どん(せごどん)は斉興の粛清で西郷どんの恩師・赤山を助けるべく、島津久光に懇願するが固く拒否されました。

史実でも青木崇高さん演じる島津久光は西郷どん(せごどん=西郷隆盛)と折り合いが悪く、島流しさせる程に関係が悪化します。

なぜそこまで島津久光は西郷どん(せごどん)の仲が悪かったか、人物像や久光を演じる青木崇高さんの役者魂なども紹介します。

西郷どん(せごどん)久光役の青木崇高のプロフィール

斉彬の異母弟を演じる俳優の青木崇高さんは、1980年3月14日生まれで185㎝と長身です。

テレビ、映画、舞台、PV、ラジオ、DVDなど多くの作品に出演されています。

主演、最近の出演作は「99.9 -刑事専門弁護士-」、「ドクターX〜外科医・大門未知子〜スペシャル 」、「地味にスゴイ! 校閲ガール・河野悦子」、「雨にゆれる女」、「幕末太陽傳」になります。

青木崇高さんは趣味でほとんど体一つで世界中を周る旅をしてるそうで、そのタフな役者魂を感じるエピソードがあります。

映画「るろうに剣心 京都大火編 / 伝説の最期編」で相良左之助役をしていますが、撮影が危険で、拳が当たって歯が折れてしまい、海外のインタビューでの青木さんの答えが、その場にいた観客を喜ばしたそうです。

フィリピンで行われたアジアプレミアで、ケガはしなかったか?という現地記者の質問に、青木崇高は

I lost the teeth by hitting.(原文ママ)」と答え、

続けて

「But I don’t mind because I am Sanosuke, right?」

と役になりきって会場に呼びかけ観客を湧かせた。

(引用元:wikipedia)

個人的には、青木崇高さんは、朝ドラ「ちりとてちん」の草々兄さんの役が印象的ですね。

大河ドラマ「龍馬伝」では自分の撮影日の2倍も現場に見学・収録、役になりきる為、その役の持っていたものを模写して愛用。

そして、殺陣の稽古では役で対立する相手の役者に、わざと距離をおいて喧嘩寸前になったそうで、後で相手の役者に理由を話して謝った。

江戸時代の拷問の本を買い研究、共演者の佐藤健を本気で拷問する熱のいれよう。

藩の重役を演じる為に、体重を15kgまで増加させたが、次の映画「一命」の撮影の為に約1か月で減量しました。

「エル・ムンド自転車探検部 タンザニアの旅」では険しい山のキリマンジャロで全長462kmを完走。

撮影で一緒になった格闘家の須藤元気からタフと認められるほどで、また、よく父親役を演じていて、子役とは遊んだりして一緒の時間を作り心を通わしています。

「ちかえもん」で共演した優香と半年の交際後に結婚され、より精力的に演技に力を入れてるそうです。

このように常識で計れない無限の力を持ってるんじゃないか?と思ってしまう魅力的な青木崇高さんの「島津久光」は身体の変化などからも言動一つ一つに注目したいですね!

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島津久光の生い立ちと兄との関係

島津久光(しまづひさみつ)の生い立ちを書きます。

※人物名の()にはドラマ西郷どん(せごどん)で演じている俳優名を書きます。

1817年10月24日に父・島津斉興(なりおき=鹿賀丈史)と側室・お由羅の方(=小柳ルミ子)との間に生まれます。

久光は斉彬(なりあきら=渡辺謙)の8歳下ですね。

1825年に島津忠公の娘・千百子と婚姻し、そこの婿養子になり、後に重富島津家の家督を相続することになります。

父・斉興の後継者争いが起こりますが、反斉彬派に担がれた久光本人は秩序を重んじていたので、争いになるぐらいなら藩主になりたくないと思っていたでしょう。

後に「お由羅騒動」に発展し、派閥の対立でお互いの重臣を粛清、その結果幕府が介入する事態になり、藩主・斉興は隠居、斉彬が薩摩藩主となります。

派閥では深い溝ができましたが、当人達は蘭学を好んだ異母兄に対して、久光は国学を好む違いはあれど、2人とも非常に学問が好きという共通点があり、斉彬とは仲が良かったようです。

婿養子に行かされたのも、派閥争いで久光は担がれたのを良く思ってなかったのでしょう、その為、同じ勉学に励む異母兄を嫌わなかったと言われています。

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藩父になりやる気を出すが西郷どんに手を焼く

斉彬の死因は疑わしく諸説ありますが、遺言により久光の子・忠徳が1858年12月28日に藩主に就任し、久光は藩父となります。

しかし、父・斉興が久光をないがしろにして実権を握り、翌年9月12日に没するまで権力をふるってました。

斉興の没後、ようやく久光は藩主の実父として藩政の実権を掌握する事ができます。

そして、藩内の権力を拡大する為に、中下級藩士を集めた「精忠組」を取り込むのですが、その中心になる西郷どん(せごどん=西郷隆盛=鈴木亮平)とは反りが合いませんでした。

斉彬を慕い由羅を嫌った西郷どんから軽蔑を受け、その上、久光が公武合体運動で上京した際、行動を控える命令を無視して西郷どんは上京します。

これらの西郷どんの行動に、堪忍袋の緒が切れた久光は、遂に西郷どんを島流しにしてしまいます。

礼儀を重んじた時代もあり、また、長い間、権力から遠ざけられた久光は、西郷どんの言動が許せなかったみたいですね。

この後、他の藩士に嘆願され西郷どんの罰が解かれますが、その時の久光の悔しい様が語り継がれるぐらい西郷どんとの仲が悪かったみたいです。

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寺田屋事件、文久の改革、生麦事件など

久光は自分の位を不服として、朝廷と幕府に働きかけるも拒絶されますが、公武合体運動推進を謳い上京します。

そして寺田屋に集結した薩摩藩士の尊攘過激派を粛清した「寺田屋事件か」で、朝廷から信頼を得て、朝廷から幕政改革を要求する為に、江戸へ行くように命じられます。

久光は江戸に到着すると勅使とともに幕府と交渉した結果、慶喜の将軍後見職と春嶽の政事総裁職の就任を実現させます、これらの人事は後で「文久の改革」と言われます。

目的を終え上機嫌で帰国する久光ですが、武蔵国橘樹郡生麦村で久光一行の行列を妨害したイギリス人を殺傷する「生麦事件」を起こし、後の薩英戦争を引き起こす事になります。

この時、西郷どんの仲間・有村俊斎(=高橋光臣)がイギリス人にとどめを刺したと言われています。

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久光は結局倒幕へ動くも新政府には批判

尊攘派と長州藩の対応、3回目の上京、朝廷会議を経て久光は公武合体論を体現した参預会議を実現させます。

しかし、横浜鎖港をめぐり慶喜と不和が生じ、その事がきっかけで久光の公武合体運動は頓挫、西郷どんや小松帯刀(=町田啓太)らにに後を任せ、京都から去ります。

1867年に久光は兵庫開港問題や長州の処分について協議する為4回目の上京、そこで久光を含めた四候と15代徳川慶喜(=松田翔太)が、諸問題の対応で意見が別れます。

結果、二条城で行われていた徳川慶喜との会談は決裂、政治的解決を願っていた久光はそれを断念して討幕へ向かう事になります。

その後、久光は病を患い、朝廷の上京の命令に息子・茂久が応じて、各藩と提携、王政復古、戊辰戦争で討幕を果たします。

維新後、討幕に力を貸した薩摩藩は、新政府に批判的で、藩体制の改革で対立することになります。

この後、新政府から度々上京するよう促されるが断り、1871年7月14日に断行された廃藩置県に怒り、自邸での庭で一晩中花火を打ち上げ抗議の意を示したそうです。

大山綱良(格之助=北村有起哉)は薩摩藩士にも関わらず鹿児島県の県令(知事)に就くよう任を受け、この旧藩と新府県の関係を断つ事を意図した人事に、久光の意を受け廃藩置県を断行した西郷どんを批判しました。

新政府による藩の分家・分断で不満を募らせる久光を調停すべく有村俊斎がその役を担いますが、それでも不満は収まらず何度か新政府に抗議をして1875年10月27日に左大臣を辞職します。

それから、鹿児島で島津家の資料を著作・編纂して隠居生活を送り、争いに係るのを嫌って「西南戦争」では中立の立場を表明して、桜島に避難してました。

戦争の後も、新政府は久光の処遇に苦慮し、その対応は最高級で遇されるほどの気遣いでした、享年71です。

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まとめ

久光は派閥争いから斉彬と仲が悪いように思われますが、実際はそうではなく、異母兄の公武合体を引き継ぐほど関係は良好でした。

寺田屋事件、文久の改革を経てようやく権力と地位を築きあげますが、生麦事件、慶喜と不和、新政府に批判的、と徐々に政局の中心から離れていきます。

じゃっどん!島津家はすごかった!

久光の子・茂久(忠義)の長女(俔子)が皇族・久邇宮邦彦王(くにのみやくによしおう)に嫁ぎ、

その娘が昭和天皇と婚姻して香淳皇后となり、現在の明仁天皇陛下を生むことになります。

久光の働きにより島津家の血は皇室にも流れているという事ですね。

新政府の政策に反発して、髷を切らず旧時代の恰好を通した頑固な久光でしたが、その頑固さと異母兄弟ながらも斉彬の知性と意志を引き継ぎ政治の中心に迫れたのだと思います。

戦争に踏み込んだ西郷どんと反りが合わなかったのは、争いを好まない賢さがあったからでしょう。

病に侵されるも西南戦争をやり過ごして、子孫を皇族へと嫁がせる事ができたのは、その久光の賢明な行動があったからだと思います。

まだまだあります、気になる西郷どん情報更新中!




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