西郷どん(せごどん)の徳川家定(役又吉直樹)さんは本当にイメージ通りなのか?

西郷どん(せごどん)第9回の話しから舞台が江戸に移り徳川家定将軍役の又吉直樹さんが登場します。

家定役の又吉直樹さんに注目が集まっています。

西郷どん(せごどん)では江戸幕府の徳川家の一人、徳川家定(=又吉直樹)とはどんな事をした人物で、また篤姫を嫁にした理由や政治手腕や病気がちなどの特殊事情を持った13代将軍の数奇な人生を紹介します。

西郷どん(せごどん)徳川家定役は又吉直樹さん

お笑いタレントであり、小説家でも有名な又吉直樹さんは、1980年6月2日生まれの大阪府出身です。

テレビ、映画、ラジオ、の出演に、雑誌の連載もされています。

文学に関係する番組「水木しげるのゲゲゲの怪談」、「坊っちゃん」、のドラマやNHKの「オイコノミア」、雑誌では「「又吉の幸せ製作所」、「服とは攻撃で、ときに自己防衛だ」などで小説家の能力を発揮しています。

お笑いやバラエティでは不定期で「人志松本のすべらない話」や「リアリTV」などの他、よしもとでトークライブもされています。

朝ドラと大河ドラマの過去の出演歴はありませんので、今回の徳川家定(とくがわいえさだ)が初の大河ドラマ出演です。

又吉さんと言えば、2015年に出版され芥川賞を受賞した「火花」が有名で、出演する番組も文学のものが多く、趣味も読書で3000冊以上の本を持っているそうです。

ベテランお笑い芸人のオール阪神巨人のオール巨人さんに、又吉さんの外見から危ない薬を使ってる疑いを受けた事があるそうで、病弱で何を考えているのかつかみ所がない、13代将軍の徳川家定にぴったり合いそうな感じがします。

元気で切れ者の篤姫に対して、又吉さんの演じる家定はどのような役になるのか登場が楽しみです。

スポンサードリンク

徳川家定は病気だったの?

徳川家定は1824年4月8日に徳川家慶(とくがわいえよし)と本寿院(ほんじゅいん)との間に生まれます。

14男13女の四男でしたが、家定以外は成人までに皆亡くなってしまいます。

その家定も病気がちで他人に会うのを嫌い、これには天然痘で疱瘡(ほうそう)の後が顔に残り、それを気にしたせいだという説があります。

家定の病気は脳性麻痺だったとも言われてます、それにしてもたくさんいた兄弟が次々亡くなったので、家定はとても驚き怖くなったでしょう。

スポンサードリンク

家定の将軍時代は

1841年、祖父で11代将軍の家斉(いえなり)が亡くなり、黒船来航してしばらくすると1853年、12代将軍で父の家慶も亡くなり、家定は第13代将軍を継承します。

その翌年、ペリーが艦隊を率いて再来日、幕府は日米和親条約に調印をします。

この時、体調を崩していた家定は将軍になった後、病状をさらに悪化しさせ廃人のようになりました。

この為、幕政は老中・阿部正弘が代わりに行い、阿部が亡くなった後は、老中・堀田正睦が代わりにと、実質上の幕府主導権は老中が握る事になります。

1857年、ハリス、ヒューケンスら一行が家定に謁見し、家定に親書を読み上げました。

その時の事が書かれたハリスの日記では、家定が見せた行動が記され、その行動は脳性麻痺の典型的な症状と言われてます。

また、ハリスに対して遠い所から来た事をねぎらい、感謝とアメリカとの国交が続く事を望む意を示し、将軍らしい対応についても記されていました。

将軍になりいよいよ活躍するのかと思っていたら、病気でがっくりしてしまいますが、ハリスの対応は別人みたいですね。

スポンサードリンク

跡継問題に巻き込まれる?

家定は篤姫の前に、正室を天親院有君と澄心院寿明君を迎えましてましたが、どちらも早くにこの世を去りました。

その為、丈夫な薩摩のおなご・篤姫が正室に選ばれましたが、篤姫の間には子供が生まれませんでした。

そして、家定の病気の悪化から、将軍の跡継をめぐり徳川斉昭と井伊直弼の政略が加速します。

島津斉彬と徳川斉昭らが一橋慶喜を推す「一橋派」、井伊直弼らが紀州藩主の徳川慶福を推す「南紀派」に別れ後継者争いが行われます。

家定はこの争いの前に重体に陥っていましたが、意識が戻り、前から気に掛けていた慶福を推薦したとの説があります。

1858年、家定はこの後継者争いにピリオドを打つべく諸大名を招集して、南紀派の推す慶福を将軍継嗣にする意向を伝え、同年8月13日に一橋派の諸大名処分を下しました。享年35

その後、直弼は一橋派とそれに加担した反対派を粛清する為、徳川慶頼を形だけの将軍後見職に立てて、安政の大獄を行いました。

最後に家定が動いた理由に逸話があり、家定は一橋派が自分の事をバカにしていた、一橋派の推す慶喜は容姿が良かったので妬んでいた、などの理由で慶福を推薦したとされています。

スポンサードリンク

家定は本当にダメな将軍だったのか?

家定は当時から、障害者を意味する言葉で偏見の目を向けられたり、他の藩主よりも能力が劣っているなど、影でささやかれていました。

しかし、明治時代に朝比奈昌広が当時の家定の批判に対して、弁護し評価を見直す話があります。

また、家定の趣味に饅頭や、煮豆をつくるなど、調理をよくしていました。

それは、20人を越える兄弟が全てが亡くなったのは暗殺ではないかという疑いがあり、暗殺を恐れる余り自分の為に調理の勉強をしていた逸話があります。

病弱でしたが、私利私欲に走った悪政をする事なく、政略まみれの後継者争いを無事終わらせられたのは、家定の判断が正しかったからではないでしょうか。

この事から家定は、徳川家の為に何とか生き延び、難局を無難にやり過ごす、少し頼りないけど衰退する幕府を導いた人物の一人だと思います。

スポンサードリンク

まとめ

篤姫を迎える又吉さんの家定登場が待ち遠しいですね。

家定は早くに多くの兄弟を亡くし、その上、父、祖父もすぐに死去、家定の周りでは恐ろしい事が起こってるかのようです。

黒船来航以降は病気の悪化で、まともに政策はできませんでしたが、ハリスらに会い、慶福を将軍にして争いを収めるべく行動を取りました。

それにしても、家定の親兄弟は恐ろしいほど連続で亡くなりましたね。

家定の死因の説も複数あり、一橋派の処分を下した翌日に家定が死去しているので一橋派の毒殺の説、持病の脚気が悪化した説、流行していたコレラの説などがあります。

病弱で将軍の時代が短かった家定ですが、「西郷どん(せごどん)」ではどんなドラマを見せてくれるか期待したいです。

まだまだあります、気になる西郷どん情報更新中!




シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする